小松簡易裁判所 昭和33年(ろ)31号 判決 1959年4月18日
被告人 喜多統喜夫
昭三・一〇・二四生 自動車運転者
主文
被告人を無罪。
理由
本件公訴事実は「被告人は、自動車の運転者であるが、昭和三十三年四月六日午前七時十分頃石一―六七〇二号普通貨物自動車を運転して小松市打木町方面より同市瀬領町方面に通ずる県道の左側を時速三十粁の速度で進行し、同市打木町イ百十番地附近に差し掛つた際、別方面の道路に向うや否や迷つて、その場に急停車したが、自動車運転者たる者は斯る人車の通行もある県道上に於て停車する場合は後方より車馬が追尾して来る場合も多いことに留意し、法令に定められた如く、右腕又は左腕を車体外斜め下に出し、追尾の車馬に警告を与え、追突等の事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、この注意を怠り、手による停止の合図もせず漫然急停車したため、折から追尾して来た寺地外喜政(当三十三年)運転の第二種原動機付自転車を車体の後部左端に追突せしめ、同人をその場に転倒せしめ、因て同人に対し全治約二週間を要する右側頭部裂創並に脳震盪の傷害を負わしめたものである」と謂うにある。
自動車の運転者たる被告人は、公訴事実摘示の普通貨物自動車(石一―六七〇二号)小松市打木町より同市瀬領町に通ずる県道を時速約三十粁の速度で瀬領町に向い進行し、北鉄バス上り江停留所(打木町地内)附近に差し掛つた際、上り江部落に用件のあることを思い付き、同停留所を稍々過ぎた頃ブレーキを踏み、該自動車が停車せんとする刹那、第二種原動機付自転車に乗車せる被害者寺地外喜政が該自動車の後部に追突し、その場に転倒し、これがため右寺地は、全治約二週間を要する右側頭部裂創兼脳震盪の傷害を負つたことは被告人の当公廷での供述、証人田畑正雄の証言、医師春木靖男の寺地外喜政に対する診断書によつて認めることができる。
ところで、運転手が自動車を運転する際どのような注意義務が課せられているかについて考えてみるに、抽象的には凡そ自動車の運転者たる者は、その業務の性質に照し、危害を防止するため実験法則上必要なる一切の注意を為すべき義務を負担するもので、法令上明文のない場合と雖もその義務を免れるものでないと謂うことができる。而してこの義務を完うするため進行中の運転者は常に前方を注視し、危険の確認並にこれに対処して万遺漏なきを期すべきであつて、特に進行道路と交叉せる道路乃至線路がその附近に於て湾曲している等特殊の事情があるため、その通行状況を知ることができないような特別の事情がある場合に限り、その方向をも注視すべき所謂後方注視義務もあるものと解する。だから前方注視の義務こそ運転者に課せられた主位的義務であると謂わなければならない。運転者が自動車を停止せしめようとする場合に於ても、その理を異にする謂われはなく、特に背後を注視する義務は特段の事情の存せざる限りないものと謂わなければならない。このことは道路交通取締法施行令第二十二条に車馬又は軌道車が他の車馬又は軌道車に追従するときは、交通の安全を確認するため必要な距離を保たなければならないと規定されていることからも容易に推知し得るところである。では、停車せんとする場合、運転者は特殊の場合を除き追突防止のためにする何等の処置も講ずる必要がないかと言えば、決してそうではなく、道路交通取締法施行令第三十六条の規定する右腕又は左腕を右方車体外又は左方車体外に斜め下に出す処置を採るべき義務がある外出庫の際には必ず制動燈に故障がないかどうかを点検する義務も併せ課せられているものと解すべきである。
然るところ、今本件に於てこれを按ずるに、本件事故発生の現場附近道路は直線であり、当時本件自動車の制動燈に何等故障のなかつたことは、司法警察員作成の実況見分調書によりこれを認め得るから被告人には後方注視の義務はなく、制動燈点検の義務違背もないが、被告人が停車に際し手を車外斜め下に出さず、漫然停車したことは被告人の当公廷における供述によつてこれを認め得るから、被告人は、停車に際し採るべき処置を講ぜなかつたところに過失があつたものと謂うべきである。
そこで進んで前記事故は、被告人の前記過失に基いて惹起したものであるかどうかについて検討することにする。司法警察員作成の実況見分調書によると、本件事故は被害者寺地外喜政の運転する第二種原動機付自転車の前照燈並に右ハンドル部が本件貨物自動車の後部左側に取付けてあるナンバープレートの左端「石」の文字附近に激突したものであることが認められ、この事実からして被害者寺地外喜政は、事故発生直前左側を運行して、本件自動車に追従していたものと考えられる。而してその間隔は被告人がブレーキを踏んだ当時どれ程であつたか、その点明瞭ではないが、被害者の運転する原動機付自転車が本件事故発生当時時速約三十粁であつたことは証人寺地外喜政の供述によつて認められ、併も被告人の当公廷での供述、司法警察員作成の実況見分調書並に鑑定人源田敏夫尋問の結果を合せ考えると、事故発生当時被告人の運転する自動車は時速約三十粁で走行しており、制動後約十三米五進行した地点に於て停車し、その間の所要秒数が一秒五内外であること及び時速三十粁の秒速は八米三であることが認められる。以上の事実から被告人がブレーキを踏んだ当時本件自動車と被害者の運転する原動機付自転車との距離は秒速八米三に一・五を乗じたる十二米四五から制動によつて自動車が減速した平均秒速に一・五を乗じたものを差引いた距離にあつたものと計数的に立論することができる。だとすると、被害者は多くとも十二米四五以内の距離に於て被告人の貨物自動車に追従していたものと謂わなければならない。そして当審検証調書によると、本件貨物自動車は右側に運転席があり、その席に於て運転に妨げのない程度で右手を斜め下に出したとしても、運転席の後部荷台が左右に出張つている関係上荷台右端を直線に延長した地点より左側は所謂死角範囲内に属し、右地域内に於てはその手を目撃することは出来ないし、更に又バツクミラーによるときはそれより更に九十糎右寄の地点を車体に並行して後方に九米七十延長した地点に立てる人体の頭部半分を照視し得るに過ぎず、従つてそれによるときは、手を車外に出したときより所謂死角範囲は増大することが認められる。以上認定の事実から見ると、仮に被告人が右手を斜め下に出したとしても、被害者は所謂死角範囲内の地点を追従運行しているものであるから、これを確認することが不可能であり、被告人の運転上の前記過失と本件事故との間には因果関係がないと謂わざを得ない。併も道路交通取締法施行令第二十二条は車馬軌道車が他の車馬又は軌道車に追従するときは、交通の安全を確認するため必要な距離を保たなければならないと規定するところから見ても、常に前方を注視し、前行車の動静に深く意を注ぎ、危険の発生を未然に防止すべく、況んや前行車の運転手の合図を目撃し得ない地点を追従する場合には、尚一層危険の防止に努むべき責務があり、これを怠りたる被害者の過失が本件事故を惹起したものと認むべきである。
然れば、本件犯罪は、畢竟するところその証明なきに帰すを以つて、刑事訴訟法第三百三十六条を適用して、被告人に対し無罪の言渡を為すことにする。
以上の理由で、主文のとおり判決した。
(裁判官 山本利三郎)